月のない夜。それでも大した数の星は瞬かない空の下、俺は世良に手首を掴まれたまま、限りなく走るに近いスピードでアスファルトの道を延々と歩いている。揺れる視界。ほろ酔いのサラリーマン、どこぞの商店主、化粧の崩れかけたOL。すれ違いざまに投げられる視線が痛い。俺はずっと、手を放せ、どこに行くんだ、止まれ、そうやって世良に言い続けているのに、世良はいっこうに止まる気配を見せなかった。

 一歩前へ踏み出すごとに、何か暗いもの……何か、足を滑らせれば転げ落ちる、ひどく深くて暗い穴のようなものが、世良と俺のすぐそばでどんどん大きく口を開いていく気がして、それを塞ぐために必死で言葉を連ねている。中身のない言葉たちが乾いた音をたててそこら中に転がるのに、穴はそれをすべて呑み込んでますます深くなるばかりだ。

「世良、おい、世良!」

 底の見えないそれを恐れている。ひとつ間違えば落ちて呑まれてしまうそれを。呑まれれば二度と浮かび上がれない深さの、暗いそれを。俺は必死でそれを避けようとしているのに、世良はその何かに向かって進んでいく。俺には世良を止められない。オレの手を放しもせず、かといってこちらを見ることもせず、ひたすら足を進めている世良など無視して、ひとりで踵を返せばいいのだと知っているのに。知っていながら、俺はこの手を振り払えず、心と裏腹にその背を追って足を動かす。握りしめられたままの手首が痛い。こんな力が世良にあるなんて知らなかった。知りたくも、なかった。

 足を動かし続けていつしか人の波も途切れ、連れ込まれたのは人影のない神社の境内。影絵になった三重塔のバックでおかしなくらい光る東京タワー。情緒があるのかないのか、まるでわからないおかしな光景の中、まだ世良は足を止めない。

「おい、いい加減に、」
「堺さん」


 俺の名前を呼んで急に立ち止まった世良がこちらを振り返る。その顔がいつになく真剣で、異様な熱と緊張に満ちていたから、口に出そうとした言葉が喉の奥で引っ掛かって出てこなくなった。

「堺さん、オレは、」
「……、」


 世良が一度言葉を切った、その瞬間に何か、何でもいいから言葉を発して、世良の気勢をそぐべきだったのだ。世良の言葉を殺すべきだった。何としてでも世良の喉元で、死なせてやるべきだった。わかっていながら何も言えずにいた俺を、世良は逃さない。

「おれは、あなたがすきです」

 聞くべきでない、言わせるべきでない言葉。それがこぼれたとたん、ああ落ちた、と思った。黒くて深い、底のない穴。捨て身で突き落とされて、落下の衝撃に息もできないまま、繋がった手を世良に勢いよく引かれた。体勢が崩れた俺を抱き込むように、もう片方の腕が後ろ頭へとのびてきた。ぐい、と掴まれて強く引き寄せられる。気づいたときには、世良の眼球に映る俺を見ていた。唇と唇の触れないぎりぎりの距離で紡がれた言葉。

「あなたが好きなんです、こういう意味で」

 言葉の意味を耳がとらえるかとらえないかのタイミングで、噛みつくようなキス。凄まじい熱に息の仕方を忘れるような、強烈な。あまりの事態に固まって動けない俺の歯列を乱暴に割った舌で我に返って、力の限りに世良を突き飛ばした。世良の身体のことを考える余裕もなかったから、本当に全力だった。勢いよく飛ばされた世良はそれでも何とか受け身をとって、顔をしかめながら石畳の上で上半身を起こす。

「……堺サン、オレ本気だから、駄目なら早くフって下さい」
「お、まえ……」
「そしたらちゃんと諦めます、時間かかると思うけど、ちゃんと」
「……」
「じゃなかったら、オレもう、止まれないから」
「……っ」
「堺サンが隙見せたら、全力で……奪いに、いきます」


 地面の上、空を突く電灯に照らされた世良の眼が爛々と赤く光る。獲物を狩る眼だった。世良が時折フィールドで見せるそれに似ていながら、それよりも粘度の高い、まとわりつくような視線。ここ最近ずっと感じていたものだ。見られているだけで背中に何かが走り抜けていくそれ。世良は本気だ。これはもう、冗談では済まされない域まで来ているのだ。嫌でも思い知らされる。

 答え、なんて決まっていた。俺は世良を受け入れてはいけない。俺は男で、世良も男で、もうそれだけで最初から答えは出ているようなものだ。言えばいい。お前の気持ちを受けとめることはできないと。それで終わることなのに、まだ返答は喉元まであがってもこない。

「……堺サン」

 立ちあがって促す世良に口を開く、否定を吐くはずの唇は震えて言葉を形作らない。気が狂いそうだ。いや、もう狂っているのかもしれない。

「世、良、」

 名前を呼べばその眼が射抜くように俺を見た。その眼に宿る灼かれるような熱情。諦めろ、そう言えば世良は俺を諦める。時間がかかっても、俺から去っていく。それでいいはずなのに。

 ……それでいい、はずなのに。

 ゆっくりと頬にのばされるその両手を避けられなかった。柔らかい仕草で、だが有無を言わせない強さで、その手のひらが俺を包んでいく。少し下向きに俺の顔を固定したままそっと伸びあがるように近づく世良の眼球に、見たことのない、できれば生涯見たくなかった顔の俺が映る。これ以上見ないで済むように目を閉じた。ふれた唇は火のように熱い。

 世良に告げる言葉はなかった。否定も肯定もできないまま、ただされるにまかせた。つむったままの瞼の裏で、世良越しに見た電波塔が燃えている。今のことも、先のことも、自分の気持ちすらわからなかった。

 ……ただ一つ確かなのは、これでもう戻れないこと、それだけだった。